ドイツ詩とリートの世界

リートを詩の解釈の面から探求していくブログ

シュトラウス 『明日には!』

Morgen!

 

Und morgen wird die Sonne wieder scheinen,
und auf dem Wege, den ich gehen werde,
wird uns, die Glücklichen, sie wieder einen
inmitten dieser sonnenatmenden Erde . . .


Und zu dem Strand, dem weiten, wogenblauen,
werden wir still und langsam niedersteigen,
stumm werden wir uns in die Augen schauen,
und auf uns sinkt des Glückes stummes Schweigen. . .

 

                                              - John Henry Mackay

 

今回はリヒャルト・シュトラウスの代表的なリートの一つです。詩人のJohn Henry Mackayは父親がスコットランド人、母親がハンブルク出身の家庭でスコットランドで生まれましたが、2歳で父親が死んでドイツに戻り、そこで育ったという人物です。作家であるだけではなく無政府主義の思想家ということですが、シュトラウスがいくつかの詩に作曲し、いずれもこの作曲家の代表的リートになっています。

 

"Morgen!"の表題はシュトラウスによるもので、意味は名詞で「朝」、副詞で「明日」。"Guten Morgen!"の挨拶を略して"Morgen!"と言ったりもします・・・ 詩の1行目で副詞として使われるので、この表題も副詞として解釈されるのが通例ですが、シュトラウスの作曲はゆったりとしたやや幻想的な雰囲気が強いので、「明日の朝!」と訳す人もいますが。

少しだけシュトラウスが原詩に手を加えているので、上にはシュトラウスが手を加えたものを掲載し、以下原詩で詩の解釈を行いながら注釈で説明していきます。

 

第1節

1:1 Und morgen wird die Sonne wieder scheinen,
1:2 Und auf dem Wege, den ich gehen werde,
1:3 Wird uns, die Seligen, sie wieder einen
1:4 Inmitten dieser sonnenatmenden Erde . . .

 

その前に何もなくundで唐突に始まる詩は時にあります。抑揚で加えられたり、なんというか、その前の状況をおぼろげに暗示させるようなニュアンスがあります。逆接の接続詞aberも同じような感じで使われます。

1行目の構造はシンプルでdie Sonne wird scheinen 「太陽が輝くだろう」にmorgenとwiederの副詞が付いているだけです。

2行目から4行目は長い一つの文章になっていて、ちょっと分かりにくいです。2行目はWegeに関係代名詞節が付いていて、3行目はunsとdie Seligenが同格なのはパッと見で分かるでしょう。

つまりシンプルに書き直すとこうなります。

und auf dem Wege wird uns sie wieder einen 

inmitten dieser sonnenatmenden Erde . . .

この文章の主語はsieで、女性代名詞なのでdie Sonneを受けていると推測できます。後半がやはり分かりにくいかもしれませんが、inmittenはin-mittenで2つの前置詞が一緒になった前置詞ですので、上の行のwird uns sie wieder einenだけで文章が成立しているはずです。

主語になれるのがsieだけなのはやはり間違いありません。動詞はぱっと見だとwirdだけです。einen werdenで「一つになる」と読めますが、unsは何でしょうか?unsを目的語に取るなら自動詞のwirdではなく他動詞が必要です。

ここで一度einenを辞書で引いてみましょう。einenには雅語で「~(4格)を一つにする」という他動詞があることが分かりますので、これで全ての疑問は綺麗に解決するでしょう。そのまま「太陽が再び私たちを一つにするだろう」と読んでも良いですが、具体的には「太陽が私たちを再会させるだろう」で解釈されることが普通です。

残りの副詞句は大きな問題は無いと思いますが、4行目のsonnenatmendenだけ見慣れない単語で、名詞sonnenと現在分詞atmendenが繋がっています。atmenは「呼吸する」、「吸い込む」だけではなく「吐き出す」「発散する」という意味がありますので、4行目は「太陽が光を放つこの大地の真ん中で」と読めます。

シュトラウスは3行目のdie Seligenをdie Glücklichenに変えています。Seligだと「天国の幸せ」というニュアンスが強くなりり、Glücklichだとより現世的です。

 

第2節

2:1 Und zu dem Strand, dem weiten, wogenblauen,
2:2 Werden wir still und langsam niedersteigen,
2:3 Stumm werden wir uns in die Augen schauen,
2:4 Und auf uns sinkt des Glückes großes Schweigen. . .

 

第1節で「再会した私たち」がどうするかが第2節の内容です。

1行目はStrandに関係代名詞節が付いているように見えますが、weitenもwogen|blauenも動詞で解釈するのが難しいですし、代名詞がdemなのもよく分かりません。ここはdem Strandにdem+形容詞(+Strand)が省略された形が続き、結果的に後ろからStrandを修飾していると考えるとすんなり読めます。weitenは「幅が広い」、wogenblauenは「青い波の」。

2行目は一つの文章でwerden wir niedersteigenで「私たちは下りて行く」。どこへ?を示すのが1行目のzu dem Strand「浜辺へ」。

3行目と4行目はもう難しいところは無いでしょう。3行目はwir uns in die Augen schauenで「私たちは自分たちの目を見つめる」で「私たちは見つめ合う」。4行目はauf uns sinkt Schweigenで「私たちの上に静寂が下りる」。

シュトラウスは4行目のgroßesをstummesに変更しています。「無言の沈黙」というのは重複した言い回しですが、「大いなる沈黙」というのを大仰そうに感じたためでしょうか。

 

シュトラウスの作曲は長く滑らかなフレーズと消え入るような弱音の使用によって、非常に秘やかでこの世のものとは思えない情感を描いており、「一聴して魅了されるリート」の一つでしょう。オーケストラ伴奏版も編曲されており、特にヴァイオリン・ソロが美しいことから、ピアノ伴奏でヴァイオリン・ソロ付きで演奏されることもあるほどです。